「しなしなのポップコーンを抱えて」に向けたコラム③川村周平

灯台とスプーンラボラトリー「しなしなのポップコーンを抱えて」に向けて、毎公演恒例の、俳優コラムをお送りします。第三弾は、今年からCampのキソレンに積極的に参加いただいています、川村周平さんです。


はじめまして。今回「しなしなのポップコーンを抱えて」に出演させていただきます、川村周平と申します。共演者の皆さんからは「かわむー」と呼ばれています。普段は福岡の私立高校で現役の教員をしながら、ワークショップデザイナー(青学44期)として、「個が滲み出るような場づくり」を探究しています。

今まで役者の経験などは一切なく、ありがたいことに今回が人生初の舞台挑戦となります。そもそものきっかけは今年から参加し始めたLIGHTHOUSE CAMP CIRCLEの「キソレン」に参加したことでした。そこから田村さんの初稿を読む機会をいただき、今に至ります。

では、なぜ一介の教員が突然、舞台に立とうと思ったのか?

それは私自身の「探究」と深く結びついています。

現代はSNSやショート動画など、人の一瞬の注意を惹きつける「アテンションエコノミー」の時代です。スマホをスワイプし続ければ、短くて分かりやすく、“正解っぽい”コンテンツが次々と流れてきます(私自身も、ふと気づくと時間を溶かしていて怖くなることがあります)。これは高校生たちも例外ではありません。

しかし、注意を引くために過激化・極端化していく情報の中で、私たちは「不安定なもの」や「答えのないもの」に長く向き合う力を、知らず知らずのうちに失っているのではないでしょうか。

相手の言動の奥にある価値観や信念に目を向けず、ひとまず「〇〇ってことね」「あの人は〇〇だから」と表面的なラベリングで分かった気になってしまう。いわゆる「ネガティブ・ケイパビリティ」の欠如と、そこから生まれる分断は、現代人の病だと感じています。

アテンションエコノミーの中で、どうすれば人間は長く物事を味わい、答えのないものを楽しめるのか。表層的なコミュニケーションが増える中で、どうすれば「個が滲み出る場」を作れるのか。

その一つの仮説として行き着いたのが「演劇」でした。

リベラルアーツ的な視点で見れば、「演じる」ことは何千年も前から人間が自然と行ってきた営みです。よく「演劇は生きる練習である」と言われます。今回初舞台に上がるのは、その言葉の手触りを自分自身の身体で確かめるための、私の「人生の実験」でもあるのです。

そうした想いを抱えて飛び込んだ稽古場ですが、灯台とスプーンの皆さんはとても温かく私を受け入れてくれました。フジモモ(藤桃子)さんが「前からいる人みたい」と書いてくれましたが、久保さんや柳田さんにも助けられながら、ゼロから立ち上がる「答えのない」創作の時間を心から味わっています。

そして、今回の作品「しなしなのポップコーンを抱えて」もまた、簡単には答えの出ない問いを投げかけてきます。僕が演じる「かなびし」は、亡くなった恋人・千歳が遺した「まるで生きているように言葉を返す仕組み(AI)」に強く思いを馳せ、彼女の死をなかなか受け入れられずにいる男性です。

愛する人がいなくなったのに、まるでそこにいるかのように言葉を返してくれる存在。「ありえそうな喪失の喪失」という本作のテーマは、テクノロジーが進化する現代において決して遠いSFではありません。かなびしのように、どうしてもその存在にすがり、前に進めなくなってしまう不器用な感情。それもまた、決してラベリングなどできない、人間の「個が滲み出る」瞬間だと思います。

時間が経ってしなしなになってしまったポップコーンのように、少し形を変えてしまった記憶や感情。一見すると本来の姿を失ったかのようなそれらも、じっくりと向き合い噛み締めてみれば、そこには確かな愛おしさや手触りが残っているはずです。

今回はラボラトリー(実験公演)ということで、まさに私の個人的な「実験」と、劇団としての「実験」が交差する場でもあります。

アトリエ間-あわひ-という親密な空間で、かなびしとして生きた直後に、観てくださった皆様とフラットに、そしてじっくりと「答えのない問い」について共有できたら嬉しいです。

3月20日(金・祝)、劇場でお待ちしております!


灯台とスプーンラボラトリー
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